九時になって僕はまた電話を掛けてみた。今度はたった一度のコールで彼女が出た。僕はしばらくの間彼女が電話に出たことが信じられなかった。突然の強大な一撃で僕を世界に繋ぎとめていた綱が断ち切られたような気がした。体の力が抜けて固い空気の塊が喉もとに上がってきた。ュミヨシさんがそこにいるのだ。
今旅行から帰ってきたばかりなの」とユミヨシはとてもくーるな声で言った。「休暇を取って東京に行ってたの。親戚の家に。あなたの家に二回電話したわよ。誰も出なかったけど
僕は札幌にきて、君にずっと電話かけてたんだ
すれ違い」と彼女は言った。
すれ違いだ」僕はそういって受話器を握りしめ、TVの無音の画面をしばらくじっと睨んでいた。上手く言葉が浮かんでこない。僕はどうしようもなく混乱していた。どういえばいいんだろう?
ねえ、どうしたの?もしもし」とユミヨシさんが言った。
ちゃんといるよ
あなた声が変みたいだけど
緊張してるんだよ」と僕は説明した。「直接君とあって話さないとうまく喋れない。ずっと緊張していたし、電話だとその緊張が解けないんだ
明日の夜なら会えると思うけど」と彼女はちょっと考えてから言った。多分眼鏡のブリッジに指を触れているんだろうな、と僕は想像した。
 僕は受話器を耳にあてたまま床に腰を下ろし、壁にもたれた。「ねえ、明日じゃ遅いような気がするんだ。今日これから会いたい
 彼女は否定的な声を出した。声にならない声だったが、その否定的な空気はちゃんと伝わってきた。
今とても疲れてるのよ。くたくたなの。帰ってきたばかりだって言ったでしょう?だから今からと言われても困るのよ。明日は朝から仕事に出なくちゃならないし、今はただただ眠りたいの。明日、仕事が終わってから会うわ。それでいいでしょう?それとも明日はもうここにいないの?
いや、僕はしばらくずっとここにいるよ。君が疲れているのもよくわかってる。でもね、正直に言ってなんだか心配なんだ。明日になったらもう君が消えちゃっているんじゃないかって
消える?
この世界から消えちゃうこと。消滅
 ユミヨシさんは笑った「そんなに簡単には消えたりはしないわよ。大丈夫よ、安心して
ねえ、そうじゃないんだ。君にはわかってないんだ。僕らはどんどん移動しつづけている。そしてその移動にあわせていろんなものが、僕らの回りにあるいろんなものが、消えていく。これはどうしようもないことなんだ。何ひとつとしてとどまらないんだ。意識の中にはとどまる。でもこの現実の世界からは消えていくんだ。僕はそれが心配なんだ。ねえ、ユミヨシさん、僕は君を求めている。僕はとても現実的に君を求めている。僕が何かをこんなに求めるんて殆どないことなんだ。だから君に消えてほしくない
 ユミヨシさんは僕の言ったことについてしばらく考えていた「おかしね」と彼女は言った。「でも約束するわよ。消えない。そして明日あなたに会う。だからそれまで待って
わかった」と僕は言った。そしてあきらめた。あきらめないわけにはいかないのだ。彼女がまだ消えていないことがわかっただけでもよかったのだ、と僕は自分に言い聞かせた。
おやすみなさい」と彼女は言った。そして電話が切れた。
 僕はしばらく部屋の中を歩きまわっていた。それから二十六階のバーに行って、ウォッカ・ソーダを飲んだ。僕が始めてユキを見掛けたバーだ。バーは混み合っていた。カウンターで若い女が二人で酒を飲んでいた。二人ともとてもシックな服を着ていた。着こなしも上手かった。一人は脚がきれいだった。僕はテーブル席に座って彼女たちを特に何の意味もなく眺めながらウォッカ・ソーダを飲んだ。それから夜景も眺めた。僕はこめかみに指を当ててみた。別に痛みはない。それから僕は指で頭蓋骨の形をなぞった。僕の頭蓋骨。ゆっくり時間をかけて自分の頭蓋骨の形を確認してしまうと、こんどはカウンターに座った女たちの骨の形を想像してみた。頭蓋骨から脊椎から肋骨、骨盤、腕と脚、関節。とても綺麗な脚の中のとても綺麗な白骨。雪のように真っ白で、清潔で無表情な骨。脚の綺麗な方の女が僕の方をちらりと見た。たぶん僕の視線を感じたのだろう。僕は彼女に説明したかった。僕は君の体を見ていたんじゃなくて、ただ骨の形を想像していただけなんだと。でももちろんしなかった。僕はウォッカ・ソーダを三杯飲んで部屋に帰って寝た。ユミヨシさんの存在を確認できたせいか、僕はぐっすり眠ることができる。
arrow
arrow
    全站熱搜
    創作者介紹
    創作者 lsl55892 的頭像
    lsl55892

    舞舞舞

    lsl55892 發表在 痞客邦 留言(2) 人氣()